【#5】最期に(『ミシンと金魚』感想)

  『ミシンと金魚』を読んだ。この本と出会えてよかった。

 (※以下は『ミシンと金魚』のネタバレを含むため気をつけてください。)

 

 冒頭を読んでカケイさんの溢れんばかりの愛嬌にさっそく心を掴まれる。ばあちゃん、という平仮名にぴったしハマるような皺の深い、丸っこい、手鞠のような面白ばあちゃん。だからその後に続くみっちゃんとの生々しい話に私は敢え無く撃たれた。何の遮蔽物もない開けた荒野の銃撃戦。読者というアドバンテージをうまく利用されて引きずり込まれた。ああ、そういえばこれは人生の話だった。

 いごき*1という言葉で距離がまたグッと近くなる。私は両親が共働きだったため祖母*2に育てられた。カケイさんとは年代が少し違うもののその言動がとてもよく似ていて、私は随所で彼女を思い出した。

 それから暫く無心で読み耽っていたが、道子の話が出てきた時、もしかして……と怯えた。この怯えは“作品”には欠かせないものだ。なくてはならない盛り上がりの為の。だからこそ少しだけ他とは質感が違う。そこで躊躇した。怖くなって一旦本を閉じて泣いた。ぎゅっと目を強くつむってからもう一度読む。

だから、わかってたけど、嫌だと呻いた。未来予知しかできない超能力者はこんな気分なんだろうか。虫ピンで止められた瞬間に延々閉じ込められて、ずーっと落ちてく。もしかしたら今の私も身投げした後の私が思い出す“一瞬”の中なのかもしれない。もう、おそい。後悔ではなくひたすらにそう思う。

何度か耐え切れなくなって本を閉じたり、開いて、少し読んでを続けた。放り投げる選択肢は全く頭に無かった。どうしても読みたかった。カケイさんと最期まで一緒に居たかった。

 やがてミシンの上糸と下糸のように広瀬のばーさんの語る話とカケイさんの人生とが合わさっていく。「人は一人では生きていけない」というのは“持ちつ持たれつ”という意味合いだけでなく、生きていくことこそが誰かと互いに影響して影響され合っている状態そのものだからじゃないだろうか。物語は深くなるにつれ、段々と透き通っていく。とても静かで、木陰に腰かけて草むらを風が渡っていくのを見るような不思議な気持ちになって、読み終えた。安堵のような満ち足りたような、いい気分だった。

 もしかして人は死に近づくとその人生をもう一度辿るのではないだろうか。日にちと時間をかけて、人生の終わりに向かって自分を思いだす。仕舞われていた記憶を辿る。無邪気に当時の気持ちと重なるときもあれば、過ぎ去った時間を眺めるだけのときもあって、そうして人は段々と自分の人生を受け入れて死んでいくのかもしれない。

祖母はどうだっただろうか、私はどうだろうか。 

まあ、いいや。と思えて終われば、しあわせだ。

 

 

 

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*1:p10・“動き”の方言・古い言い方

*2:【#4】に出てくる父方の祖母